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米代川流域の歴史  

明治時代になると、 秋田藩にかわって、
営林署が 天然秋田杉地域をおさめるようになり、
下流の能代では機械製材がはじまりました。

 
 


 明治に入ると、秋田藩がもっていたお直山は、そっくりそのまま国有林に組み込まれました。徹底的な検地が行われ、このあたりの杉林は「秋田大林管理局」に組み込まれました。

  明治40年頃からは国有林の事業所があっちこっちにでき、「官行」とよばれる伐採事業がさかんになりました。同じ頃、能代では井坂直幹が機械で製材する「秋田木材」の工場を開きます。それまで山である程度材に加工して出していたのが、原木で出るようになったのもこの頃です。
 
 
藩有林から国有林に移管した山林の台帳。確定するのに20年近くかかった
   

 
モダンな秋木本社事務所  
   
 
 
井坂直幹(右の写真の人物がそうです)は能代の功労者。海近くの松林の中に記念館と公園がある  
   
 
 
 大正時代には、それまで馬橇や人力に頼っていた原木も、森林軌道や森林鉄道で一度に大量に運搬できるようになり、林業も木材業も大いに栄えました。能代は「東洋一の秋木」を中心にした製材所が立ち並び、「木都能代」と呼ばれるようになりました 。  
 
 
明治時代後半の秋木全景。屋外に原木や板がびっしり積まれている  
   
 
秋木の工場には貨車が横付けし、全国に材木を積みだしていた  
   
 
二ツ井方面から流されてきた筏をばらして秋木の工場に通じる水路に流す  
   
 



 第一次大戦が終わって世の中が不景気になると、国有林では、植林の経費を節約するために、一山全部を丸坊主に伐る「皆伐方式」から、間を置いて抜き伐りにすれば、伐った後から、天然更新で自然と次の杉が育つだろう、という仮説のもとに、「植林はしない」という「択伐方式」に切り替えました。ドイツでうまくいったから、ということと、わざわざ植林しなくても、1917年のシベリア出兵以後日本に併合していた樺太や韓国からいくらでも杉は来る、という読みもはじまった択抜方式でしたが、結局うまくいかず、造林されない空白期間を作ってしまったことになりました。
・皆伐方式、択伐方式の変遷はこちらへ 。
 




 関東大震災、第一次大戦後の恐慌、世界恐慌、と、大正末期から昭和にかけて、日本の経済は混迷をきわめました。米代川流域でも、不景気と凶作とが重なり、昭和5年から9年頃にかけて、多くの娘が身売りしたり、葛の根まで煎じて食べなければならないほど、暮らしが圧迫されていました。
  山村の生活も苦しかったこの時期、国有林は、山仕事の臨時雇いや炭焼きなどで、雇用をつくって、山村の経済を支えるための努力をしたものです。
  特に、炭焼きには力を入れ、営林署直営の製品検査所を設け、良質な炭を首都圏に出荷しました。
 
  昭和30年代はじめまで、炭焼きは、山村の貴重な現金収入源であった
   
 
女たちも総出での植え付け作業。国有林は山奥の生活を支える大事な働き口だった  
   
 
今でも二ツ井地区では、冬に営林署管轄の炭焼きを行い、出荷している  
   

炭焼き小屋の内部
 
 
 
 
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(c)モクネット事業協同組合   最終更新日:2001.03.31
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