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米代川流域の歴史  

江戸幕府の要求にこたえたり
藩の財源を絶やさないようにするために、
秋田藩は持続型の森林経営を行いました。
「留山制度」はそのすぐれた政策のひとつでした。
 
 


 時代が替わって、今度は佐竹氏が秋田を治めるようになりました。
 江戸幕府も秀吉と同じように、大量の板を定期的に納めるように言ってくるので、どうしたら木を絶えず出し続けていけるか、佐竹氏は考えました
 その時にこの章のはじめで紹介した「山は国の宝なり。しかし、切り尽くせば用をなさず、尽きざる以前に備を立つべし。山の衰えは即ち国の衰えなり」と言ったのです。
 そこで佐竹氏は、杉山のほとんどを藩の直営とし、幕府の要求にこたえ、かつ藩の財政を支えるための伐採を推し進めました。特にこの米代川流域は杉がたくさん取れるところなので、「能代奉行」をおき、住民が勝手に木を伐ることのないように流域一帯を管理させました。そして、 秋田藩は、二ツ井の小掛山、大館の奥の長木沢などから、大径木の野生の天然杉をどんどん伐り、米代川を利用して能代に運び、藩外へ輸出していました。 沿岸は、木材の伐り出しや運搬、そして奥羽と江戸を結ぶ羽州街道の宿としても栄え、今の集落の原形をつくりました。
 
  天然杉は、秋田藩にとては重要な財源だった
   

 
江戸時代の地図に、今の二ツ井の集落の名前がかなり出揃っている  
   
 





 天然杉を伐り尽くしたことが今、問題になっていますが、江戸時代にも同じようなことはおきていました。元禄以降になると無尽蔵、と思っていた杉が、なくなってきたのです。そこで、秋田藩は、3回にわたる林政改革を行いました。まず、直営制度をさらに強化した「留山制度」をつくりました。絶対に勝手に斧を入れさせない「お直山」を定め、貴重な杉を保護、伐りすぎないように計画を立てて利用する一方で、農民の生活の便宜をはかるために、生活に必要な木を伐ってもよい、という慣例をもつくり、結果的には、今「天然杉」と重宝されるすぐれた木材資源をストックすることに成功しました。

留山制度
お直山 藩が直接管理して民間には絶対に伐らせない
運上山 藩にお金を払えば、村や個人が切ってもいい
郷山 生活に必要な木について、その村に管理経営させる
 
 





 また、生えている杉を保護するだけでなく、植林を奨励して農民に植えさせることもしはじめました。これは、はじめのうちうまく行かなかったのですが、3回目の林政改革では賀藤景林という山役人ががんばり、6年間に250万本に及ぶ植林を果たしました。

 まず彼は、「留山制度」を守った計画的な伐採を実際に可能にするために、領内の山を隅から隅まで自分の足で歩き、山の様子をしっかり把握しました。

 また、杉苗を村に配って植林を勧め、それまで植林しても最終的に伐った木の売り上げの半分は藩にもっていかれる決まりになっていたのを、植えた人が7割をもらえることにして意欲を高め、伐採跡地などへの植林を実行。今でも二ッ井の一部にわずかに残る立派な天然杉の林は、この頃に植えられたものの名残と考えられます。
 
  林政改革を現場で指揮をとった山役人、賀藤景林
   





 どんどん伐採され、米代川流域から能代へ流された杉は、船で諸国に運ばれ、藩の財政を潤しました。そして、その売り上げで入ってくる生活物資もまた川を上っていきました。上方からの物資を積んで上る船、木や鉱物資源、米など流域の産物を積んで下る船、どちらもが立ち寄っては荷物を積みかえていく「川湊」として、たくさんの支流が米代川に合流する位置にある二ッ井地域は大いに栄えました。トラックのない時代、鉱物資源も木も、みんな船で動いていたのです。
 
  荷上場の賑わい。山からは筏が能代へ下り、海からは生活物資を載せた帆かけ船が上がってきた
   
 
 
 能代  このあたりが二ツ井   大館
 
米代川に沿って、江戸と青森を結ぶ羽州街道が通っていた。二ツ井近辺は難所で、2箇所渡し船を使ったものであった  
 




 その後、藤琴川が米代川に合流する少し手前に加護山精錬所ができ、阿仁川流域の粗銅、藤琴川流域の鉛を「南蛮吹き」という方法で精錬し、銀を絞り出す、という精錬所が、大阪から来た商人によって開かれました。この技術は平賀源内が指導し、高い技術で確実に利益をあげていきました。秋田藩の財政を助けるために、藩はこの精錬所をも直営事業とし、多くの銀や鋳造銭をここで製造しました。

 精錬するには、高温の火を熾さなければならないので、大量に炭が必要になります。そこで、藤琴川・粕毛川上流の広葉樹の山でさかんに炭焼きが行われ、川で運ばれたのです。
 
  加護山精錬所の模型。山の中腹には神社がある
   
 
  加護山精錬所全景
   
 
  タタラを踏む仕事は女たちでもできた。保育園のない時代、子どもがまつわりつく
   
 
 
 
 
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(c)モクネット事業協同組合   最終更新日:2001.03.31
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