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米代川流域の歴史  

米代川流域にはもともと、
狩猟採集を生活の基本とする
「蝦夷(えみし)」 とよばれる
先住民が住んでいました。
 


かつては、新潟から秋田、青森にかけての山間地域には広く分布していたマタギ。二ツ井周辺にはもういない。写真は、民族文化映像研究所で作った記録映像に見ることのできる、三国のマタギの出で立ち。
 



 教科書の最初の方に書かれているのは、畿内を中心とした大和朝廷という一勢力が、次第にそのまわりの「先住民」を征服していった歴史です。
この東北地方についていえば9世紀はじめ頃、「坂上田村麻呂」の功績により、大和朝廷はその勢力範囲を本州北端にまで伸ばした、ということを学校では教えます。それだけが書かれた歴史として残っていることだからです。それでは坂上田村麻呂に征服された、米代川流域にはどんな人々が住んでいたのでしょうか?
 




 大和朝廷の記録にその先住民たちは「蝦夷(えみし、えぞ)」と記されています。田村麻呂の遠征より前に、「安倍比羅夫(あべのひらふ)」という人が大和朝廷から遣わされて男鹿・能代地方にやってきています。立派な武器や装束を身につけ、流域の酋長たちをもてなし、その威光によって、戦うことなしに忠誠を誓わせました。比羅夫は大和朝廷に征服された「越の国」(今の福井県を本拠とした北陸一帯)の王様だった人で、やはり「蝦夷」でした。同じ蝦夷である北方の人たちを朝廷に従わせることを仕事として任され、血を流さずにこれを成し遂げたわけです。近世以降「蝦夷地」といえば北海道を指しますが、その昔、蝦夷はもっと広い範囲に住んでいた先住民だったのですね。
 
米代川流域までが大和朝廷の勢力下に入るのはようやく9世紀になってから  
   





 阿倍野比羅夫が来た時、仁鮒の「ニフネ」酋長は降伏、切石の酋長「シリベシ」は抵抗して北海道へ逃げた、と朝廷の記録に残っています。「ニフネ」とは、アイヌの言葉で読み解くと「木がたくさんあるところ」という意味です。ほかにも「〜内」が着く地名や方言の共通性からいって、北海道アイヌと米代川流域に住んでいた先住民の蝦夷とは、大きく言って同じ流れをくむ民族であったのではないか、と思われます。  





 蝦夷は稲作は行っておらず、稗・黍・栗を主食とし、ウサギやクマ、鮭など、山や川の恵みで生きていたようです。自然に対して敬虔な気持ちをもちながら、その恵みを利用させてもらう、という感覚を人々はもっていました。

 つい最近まで山に生きる暮らしを主としてきた阿仁マタギの言葉に、その感覚をしのぶことができます。

阿仁マタギのことば


(マタギであった父のことばを、息子が記録したもの)
 

・・・山は山神様が支配するところで、クマは山神様からの授かりもの。必要以上に獲りすぎてはいけないし、ほかにも山神様に嫌われないよう、いろいろ気づかっていました。山神様が守ってくれている、それが頭に入っていれば間違いない、いつも父はそう言っていました。その教えを守って、どんなに忙しくても、わたしは必ず山神様にお参りしてから山に入るようにしています・・・


 
 
 
 
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(c)モクネット事業協同組合   最終更新日:2001.03.31
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