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二ツ井再発見  


菅江真澄。
佐竹公に接見する時は黒頭巾、
自ら名乗るようになったのは
文化7年から、という。
謎の人物 。
 
 

 
 
菅江真澄の旅の軌跡  
   
 江戸時代の絵師・菅江真澄は、天明3年(1783年)に三河の国を旅立ち、信濃・越後を通って、天明の飢饉に見舞われていた東北地方に入り、さらに北上し北海道へと旅をしている。その後文化8年(1811年)にまた秋田に戻り、佐竹義和公から藩内地誌作成の内命を受けている。二ッ井にはその前の享和2年(1783年)から文化4年(1807年)4回立ち寄り、絵や紀行文を残している。旅の目的が何だったのか、真澄の素性は、と謎の尽きない人物だが、二ッ井を好んで歩き、描いていたことは確かだ。
 江戸と奥羽地方をつないでいた羽州街道は、能代方向から米代川に沿ってをさかのぼるように通っていった。二ツ井のあたりは、川のすぐ近くにまで急峻な地形が迫る難所であった。
 まず、 切石まで来たら、渡し船で今の二ッ井中心部の方に渡り、また荷上場から小繋まで一里の渡しを利用し、川の両岸を行ったり来たりするようにして街道は続く。
 菅江真澄はこの二つの渡しの様子を、対岸から描いている。



 
   今のきみまち阪の屏風岩の上から七座山方面を見た風景。かつて、一里の渡しの船賃を払えない旅人は、素足で藤琴川の浅瀬を渡り、険しい屏風岩(今のきみまち阪)の真上を通る以外になかったものだが、その分登り切ったところではこんな雄大な風景を味わえたということだ。右が藤琴川をはさんだ向こうに見える荷上場、左が小繋。七座山の七つの峰は縦方向に重なるようにして見えている。
 




 
   二ツ井側から描いた、切石の渡し。川岸近くまで大きく迫る切石の山と、小さな渡し船との対比が対照的でおもしろい。
 
その切石の渡し。船着き場の右奥には、仁鮒から奥が見えている

沸石(ゼオライト)が採れる山があり、昔から石を切り出していたので切石という地名になった

 
今の同じ場所。川船がもやってある  
   
 
 
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(c)モクネット事業協同組合   最終更新日:2001.03.31
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