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二ツ井再発見  


二ッ井の中央をゆったりと行く 米代川。
町内を流れている 距離はおよそ15km。
その間に、いくつもの支流が合流している。
その上流域は、天然杉や薪炭、
鉱物資源に恵まれた森林で、
流域の人々の生活を支えてきた。
米代川に浮かぶ川舟。夏には鮎釣りもさかん。


 
 

 
 
内川上流と小阿仁川流域からは天然杉が、藤琴川・粕毛川からは薪炭が、二ツ井に集まってきた。種梅川は今でも鮭が遡上する美しい川  
 二ツ井町に入って、米代川は何回も急な蛇行を繰り返す。ヘアピンカーブのように両岸にはさまれたところは、急峻な地形となっており、徒歩で旅した昔の人にとっては難所であった。きみまち阪や七座山もそういう位置にあり、標高が低い割に、ダイナミックな景観を楽しませてくれる。 合流してくる川との関係、山のどちら側に位置するかによって、川の流れ方や風の吹き方にも違いがある。七座山の西側(仁鮒側)は海からの冷たい風がきつくあたるため、大きな樹木は生えていないが、反対の小繋側では霧が深く、野生の杉や広葉樹と混じって生えている原生林がうっそうと茂っている。
 

 
雪の合間、曇天の米代川  
   
 
天神荘近くから見た米代川対岸。空を映して穏やかに流れる  
   
 



 
 
米代川をゆったり流れる筏。2人1組みで能代まで下った  
   
 春から初冬にかけて米代川の風物詩として親しまれてきたのが、天然杉の筏流し。支流の沢から運ばれてきた原木が、米代川に合流するあたりで筏に組まれて、製材所がたくさんある能代まで流送されたが、昭和30年代、原木のトラック輸送が普及するとともに姿を消した。能代で機械製材がはじまる前の明治中頃までは、山である程度製材したものを筏にしていたようだ。(詳しくは、「山仕事の四季」へどうぞ)昭和39年まで筏流しが残っていた仁鮒の内川河口には「筏流し発送の場」という碑が建っている。



 
   幹線道路やトラックのなかったその昔、支流の奥から伐り出されてくる杉やはみな川沿いに管流しで、あるいは筏に組まれて運ばれていた。ほかにも上流の沢からは薪炭や鉱物資源が、下流の能代方面からは、北前舟が運んできた京阪神の生活物資や海岸から来る魚などが川をのぼってきていた。二ッ井から幾筋にも分かれる支流域へ行き来する物資の集散地、川湊として、二ッ井は栄えたのである。その歴史の名残が舟から荷をあげるところ、という「荷上場(にあげば)」の地名に残っている。
 
 
荷上場は藤琴川が米代川に合流するところに発展した川湊だった。  
   
 
 
山からは筏が能代へ下り、海からは生活物資を載せた帆かけ船が上がってきた。  
   





 
 
藤琴川に面している加護山精錬所の全体図。川を船が行き来しているのがうっすらと見える。  
   
 
 
明治にに入ってからの写真。中央右よりにあるのが、銅や銀の出入りを管理する、番所。  
   
   江戸時代にかけて二ッ井には、粗銅から銀を絞り出す「南蛮吹き」という高度な技術が平賀源内によって伝えられ、「加護山精錬所」が開かれた。二ッ井自体には鉱山はないが、阿仁川上流から銀を含んだ銅を、藤琴川上流の太良鉱山からは銅の精錬に欠かせない鉛を運び、精錬の火を熾す燃料となる炭は粕毛川や藤琴側上流の在所から供給、精錬した銀や銅を米代川で能代湊へと積み出すのも容易だ。そんな絶好の立地条件に位置していたからこそ、この鉱物産地でない加護山に、当時の最先端をいくコンビナート型の精錬所ができたのである。開山後運営がうまくいくようになると藩が直営するなど、秋田藩の貴重な財源となった。


   
 
 
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(c)モクネット事業協同組合   最終更新日:2001.03.31
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