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山を育てる
山仕事のしかた
山の値段
伐採量・需要・造林面積
恐慌〜戦争〜復興〜高度経済成長 低成長時代に突入 これからの課題
 
山の80年人の80年  

チェーンソーもトラックもなかった頃、
山仕事は人力の限界にせまる仕事だった。
それも、太い天然杉相手の!
 
     
 

 
   山の仕事が機械化されていったのは昭和35年頃から。日本の国全体が高度経済成長を遂げていた時期で、この米代川から天然杉がなくなっていった時期でもあります。

 太い立派な杉を伐っていた頃は人力ですべてやっていたのに対して、今は細いのを機械で伐っているわけです。機械を使った林業は、作業効率がいいので、あっという間に広まりました。もう、手で木を倒そう、という人はいません。その分、昔の山仕事の人がもっていたさまざまな知恵や工夫が消えてしまったともいわれます。今の私たちが鋸と斧を渡されて山に入ったとして、木一本、果たして自力で切れるでしょうか・・・。それは疑問です。機械は人の代わりをしてくれるものですが、人のなにかがその分退化してしまうのかもしれません。

  林業に従事する人が減ったとはいえ、それと比べて、素材生産量が同じ割合では減っていないのは、機械の生産性の分です。逆にいえば、同じ生産性をあげるのに機械化以前の仕事の方が、多くの人を雇用できていた、ともいえます。



 
   昭和30年代前半まではまさかりや斧で切り始め、大きな鋸で切り倒し、玉切り(必要寸法に切ること)していました。それがチェーンソーに変わりました。

  初期の頃のチェンソーは、使う人の体に機械の振動が伝わりすぎて、手の感覚が麻痺してしまう「白蝋病」という職業病をも生み出しました。これは労災として認められ、二ツ井には営林署直営の病院までできました。今のチェーンソーはそうならないような工夫がされています。

 
 
伐採のための受け口をとる  
   
 
 
大鋸で天杉を切る  
   




 
 
雪の斜面を、谷へと一気に下るバチ橇引き  
   
 昔は、切った木を山で製材し、人力や馬力で沢まで運び、そこから水の流れを使って一本ずつ流していました。このあたりでは、雪が降る時の方が重たい木を運ぶのに有利なので、稲刈りが終わった秋から冬にかけて伐り、春にかけて雪の斜面を、おろしていました。
 

 
人力で太い天杉を運び出す力持ち。一日一升の飯を食ったという  
   
 
天然杉は重い。引きはじめには力がいる  
   
 
   明治終わりから大正にかけて、仁鮒の奥のような主だったところには、森林鉄道が走るようになりました。これで、鉄道の終点までおろせば、あとは一気に機関車が木を満載した貨車を引いていってくれます。ただし、貨車に積むのは人力でした。鳶口といわれる長い柄にカギ型の刃物がついた道具で木をひっかけて木を寄せては積んでいく仕事をする人は「ガケッパ」とよばれていましたが、これも重労働でした。

 
鳶口ところを使って、木を寄せるガケッパ職人  
   
 
 
貨車に木を積んで運ぶ森林鉄道  
   

 
   今では、トラックや重機が人の代わりをしています。玉切りした木は重機で荷台に積み、キャタピラ車で林道まで運び出します。

 
奥の山から木を積み出す森林鉄道  
   
 
 
森林鉄道がないところでは、冬、馬が活躍した。馬にとっても、雪の中、湯気をたてながらの重労働。その分、馬は大切に扱われた。  
   
   最近では、いくつもの作業を、集約してできてしまうような機械が、森林組合や素材生産業者に入っていっています。こうした機械を操作するための講習や、高度な重機を買うための費用については、県から手厚い補助が出ています。

 
伐った木の枝を払って玉切りする「プロセッサ」  
   
 
 
運搬車に積んだり降ろしたりする「フォワーダ」  
   
 
伐採地の上空にワイヤーロープを張り、宙づりにして木材を集める「タワーヤーダ」  
   
 
 
木を伐る、枝を払う、玉切りするを一気に一台でする「ハーベスタ」  
   





 
   沢が米代川本流に合わさるあたりに、矢来を組んで流れてきた木を集め、筏に組んで能代湊へと出していました。その木を集まておくところを、土場、規模が大きくなると貯木場と呼んでいました。

 貯木場では、径級などに応じて原木を分類して積み上げておきました。この作業を巻き立てと呼んでいました。「よいと巻け」と掛け声をかけながら、綱で丸太を引き上げる作業は、お母ちゃんたちもしていたものです。

 
巻立作業。丸太の山の上に人がいて、下にある木を、かけ声をしながら引っ張り上げる重労働  
   
 
 
東洋一の規模といわれた天神貯木場が二ツ井にあった  
   






 
 
米代川をゆったり流れる筏  
   
 売れていく先が決まった木は、貯木場から筏で、あるいは奥羽本線の貨車で、能代へ、東京へ、と運ばれていきました。筏流しは、雪解けの春から晩秋11月頃まで行われていました。木が伐られてから下流に流れていくまで、今よりずっと日数がかかるので、原木の乾燥の問題は今ほど深刻ではなかったようです。特に筏流しは、「水中乾燥」といって、水を含んだ木の細胞自体をこわすことによってかえって含水率を下げる効果がある、ともいわれています。
 

 
川幅が広くなったところで筏に組む  
   
 
 
駅のすぐそばにあった秋木の二ツ井工場。原木を天神貯木場から森林鉄道で運び、製材品を奥羽本線で出荷していた  
   
   トラックが通れる林道が整備されると、森林鉄道も筏も、木を積んだ貨物列車もなくなっていきました。素材生産業者から製材所へ、原木市場へと、積み替えることなしに直接目的地まで道路で運べるトラックは、なんといっても便利だからです。
 
 
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(c)モクネット事業協同組合   最終更新日:2001.03.31
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